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空海ってこんな人
観光2017年12月18日
この方なくして高野山は語れません!
今から1200年前、高野山の地に真言密教の根本道場を開いた弘法大師・空海。
讃岐国に生まれ、唐に渡って真言密教を日本にもたらした、その偉大な生涯をご紹介いたします。
誕生
宝亀5年(774) 讃岐国屏風浦に生まれる
宝亀5年(774)6月15日、現在の香川県善通寺市に誕生。
幼名は眞魚(まお)といい、土で仏像を作って拝む幼少期を送りました。
7歳の時に捨身ガ嶽(しゃしんがたけ)に登り、「大きくなったら世の中の困っている人々を救いたい、その力がないならば私の命を仏に供養します」と祈り、谷底めがけて飛び降りたところ、天女が現れて眞魚をしっかり受け止めたといいます。
眞魚は喜び、それから一層勉学に励みました。
15歳
延暦7年(788) 勉学に励む少年時代
この頃、母方の伯父である大学者、阿刀大足(あとのおおたり)に師弟して論語、孝経、史伝、文章などを学びました.
18歳
延暦10年(791) 大学明経科に入学
「毛詩」「尚書」「春秋左氏伝」などを学びます。
沙門から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を授けられ、阿波や土佐で修行をしました。
24歳
延暦16年(797) 出家を宣言
仏道の修行を始めた眞魚は大学を去り.19歳のときに親戚の反対を押し切って和泉国(現在の大阪府)槙尾山寺で、剃髪します。
22歳で名を空海と改めました。
24歳のときに、反対する親族に対する出家宣言の書とされる「聾瞽指帰(ろうこしき)」三巻を著し、儒教と道教、仏教の優劣を論じました。
31歳
延暦23年(804) 唐への旅立ち
夢のお告げにより、大日経を学ぶため唐(中国)に渡る決意をします。
延暦23年(804)7月6日に留学僧として遣唐使の一行とともに出帆、暴風雨に遭いながらも8月10日に福州赤岸鎮(ふくしゅうせきがんちん)に漂着します。
上陸を拒まれるも、空海が書いた手紙が立派だったことに州の長官が驚き、一行は上陸を許されたといいます。
32歳
延暦24年(805) 真言密教の正統な継承者に
長安の都に入った空海は、青龍寺東塔院の恵果和尚の潅頂を受け、遍照金剛の法号を授かり、正統的な真言密教を継承しました。
33歳
大同元年(806) 真言密教の教法を授かり帰国
「早く日本に帰って真言のみ法(のり)を広めよ」との恵果和尚の遺言に従い、帰国の途につきました。
その際、明州(みんしゅう)の浜辺で「受け継いだ教法を広めるのに良い土地があれば、先に帰って示したまえ」と祈り、三鈷を空中に投げました。
これが後に、高野山の壇上伽藍の松の枝に架かっていたため、飛行三鈷杵と崇められるようになったといいます。
36歳
大同4年(809) 平安京に入る
大同元年に唐から帰国し、「御静来目録」を朝廷に提出していた空海。
大同4年(809)にようやく平安京に入る許可が下りました。
37歳
弘仁元年(810) 鎮護国家のため立教開宗
嵯峨天皇に書を奉って「真言宗」という宗旨を開く許しを得ます。
真言密教を広め世の中の迷える人や苦しむ人を救うための活動が始まりました。
43歳
弘仁7年(816) ついに高野山を開創
帰国後、真言密教を広めるための根本道場を開く地を求めて各地を巡った空海は、大和国宇智郡(現在の奈良県五条付近)で、狩場明神が化身した狩人に出会い、白黒二匹の犬に案内されて高野山にたどり着きます。
松の枝に明州の浜辺から投げた三鈷がかかっているのを見つけ、弘仁7年(816)、朝廷に高野山に真言密教の根本道場を建立することを願い出て、嵯峨天皇からの許可を賜りました。
48歳
弘仁12年(821) 治水事業でも大活躍
当時、決壊を繰り返していた讃岐国(現在の香川県)の満濃池の修築別当に任ぜられ、たった3ヶ月で難工事を完成させました。
55歳
天長5年(828) 庶民のための学校「綜芸種智院」を創立
貴族のための学校しかなかった時代に、一般の人たちが勉強するための学校、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を京都に創立しました。
59歳
天長9年(832) 高野山で万灯万華会を修する
灯明と華を仏に供養して感謝を捧げる「万灯万華会」をこの年の8月22日に初めて開催しました。
この行事は現在も高野山に受け継がれています。
62歳
承和2年(835) 奥之院で御入定(にゅうじょう)
高野山開創から約20年間、全国に教法を広め、悩める人々を救う教えを説いた空海。
未来永劫人々を救いたいと、弟子たちに御諭しされ、承知2年(835)3月21日寅の刻を入定の時と定めました。
一週間前から御住房を浄め、いっさいの穀物を断ち、結跏趺坐して手に定印を結び、御入定されたといいます。
50日目に弟子たちは、空海自身が定めた奥之院の霊窟に御定身を納めました。
入定から86年後の延喜21年(921)、醍醐天皇から弘法大師の諡号を賜り、御廟前で詔勅報告の式が執り行われました。
現在
今も奥之院で人々を見守っています
永遠の禅定に入り、人々を見守っているとされる空海。
御廟へは毎日の食事が運ばれ、毎年3月21日にお衣替の儀式がおこなわれます。
今から1200年前、高野山の地に真言密教の根本道場を開いた弘法大師・空海。
讃岐国に生まれ、唐に渡って真言密教を日本にもたらした、その偉大な生涯をご紹介いたします。
誕生
宝亀5年(774) 讃岐国屏風浦に生まれる
宝亀5年(774)6月15日、現在の香川県善通寺市に誕生。
幼名は眞魚(まお)といい、土で仏像を作って拝む幼少期を送りました。
7歳の時に捨身ガ嶽(しゃしんがたけ)に登り、「大きくなったら世の中の困っている人々を救いたい、その力がないならば私の命を仏に供養します」と祈り、谷底めがけて飛び降りたところ、天女が現れて眞魚をしっかり受け止めたといいます。
眞魚は喜び、それから一層勉学に励みました。
15歳
延暦7年(788) 勉学に励む少年時代
この頃、母方の伯父である大学者、阿刀大足(あとのおおたり)に師弟して論語、孝経、史伝、文章などを学びました.
18歳
延暦10年(791) 大学明経科に入学
「毛詩」「尚書」「春秋左氏伝」などを学びます。
沙門から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を授けられ、阿波や土佐で修行をしました。
24歳
延暦16年(797) 出家を宣言
仏道の修行を始めた眞魚は大学を去り.19歳のときに親戚の反対を押し切って和泉国(現在の大阪府)槙尾山寺で、剃髪します。
22歳で名を空海と改めました。
24歳のときに、反対する親族に対する出家宣言の書とされる「聾瞽指帰(ろうこしき)」三巻を著し、儒教と道教、仏教の優劣を論じました。
31歳
延暦23年(804) 唐への旅立ち
夢のお告げにより、大日経を学ぶため唐(中国)に渡る決意をします。
延暦23年(804)7月6日に留学僧として遣唐使の一行とともに出帆、暴風雨に遭いながらも8月10日に福州赤岸鎮(ふくしゅうせきがんちん)に漂着します。
上陸を拒まれるも、空海が書いた手紙が立派だったことに州の長官が驚き、一行は上陸を許されたといいます。
32歳
延暦24年(805) 真言密教の正統な継承者に
長安の都に入った空海は、青龍寺東塔院の恵果和尚の潅頂を受け、遍照金剛の法号を授かり、正統的な真言密教を継承しました。
33歳
大同元年(806) 真言密教の教法を授かり帰国
「早く日本に帰って真言のみ法(のり)を広めよ」との恵果和尚の遺言に従い、帰国の途につきました。
その際、明州(みんしゅう)の浜辺で「受け継いだ教法を広めるのに良い土地があれば、先に帰って示したまえ」と祈り、三鈷を空中に投げました。
これが後に、高野山の壇上伽藍の松の枝に架かっていたため、飛行三鈷杵と崇められるようになったといいます。
36歳
大同4年(809) 平安京に入る
大同元年に唐から帰国し、「御静来目録」を朝廷に提出していた空海。
大同4年(809)にようやく平安京に入る許可が下りました。
37歳
弘仁元年(810) 鎮護国家のため立教開宗
嵯峨天皇に書を奉って「真言宗」という宗旨を開く許しを得ます。
真言密教を広め世の中の迷える人や苦しむ人を救うための活動が始まりました。
43歳
弘仁7年(816) ついに高野山を開創
帰国後、真言密教を広めるための根本道場を開く地を求めて各地を巡った空海は、大和国宇智郡(現在の奈良県五条付近)で、狩場明神が化身した狩人に出会い、白黒二匹の犬に案内されて高野山にたどり着きます。
松の枝に明州の浜辺から投げた三鈷がかかっているのを見つけ、弘仁7年(816)、朝廷に高野山に真言密教の根本道場を建立することを願い出て、嵯峨天皇からの許可を賜りました。
48歳
弘仁12年(821) 治水事業でも大活躍
当時、決壊を繰り返していた讃岐国(現在の香川県)の満濃池の修築別当に任ぜられ、たった3ヶ月で難工事を完成させました。
55歳
天長5年(828) 庶民のための学校「綜芸種智院」を創立
貴族のための学校しかなかった時代に、一般の人たちが勉強するための学校、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を京都に創立しました。
59歳
天長9年(832) 高野山で万灯万華会を修する
灯明と華を仏に供養して感謝を捧げる「万灯万華会」をこの年の8月22日に初めて開催しました。
この行事は現在も高野山に受け継がれています。
62歳
承和2年(835) 奥之院で御入定(にゅうじょう)
高野山開創から約20年間、全国に教法を広め、悩める人々を救う教えを説いた空海。
未来永劫人々を救いたいと、弟子たちに御諭しされ、承知2年(835)3月21日寅の刻を入定の時と定めました。
一週間前から御住房を浄め、いっさいの穀物を断ち、結跏趺坐して手に定印を結び、御入定されたといいます。
50日目に弟子たちは、空海自身が定めた奥之院の霊窟に御定身を納めました。
入定から86年後の延喜21年(921)、醍醐天皇から弘法大師の諡号を賜り、御廟前で詔勅報告の式が執り行われました。
現在
今も奥之院で人々を見守っています
永遠の禅定に入り、人々を見守っているとされる空海。
御廟へは毎日の食事が運ばれ、毎年3月21日にお衣替の儀式がおこなわれます。
高野山・九度山ツアー予約受付一時停止のお知らせ
お知らせ2017年12月15日
冬季は道路が凍結するため、ツアーの受付を一時停止させていただきます。
来年3月から受付を再開いたしますので、よろしくお願い申し上げます。
《3月行事のご紹介》
★21日 午前9時 正御影供 (しょうみえく)
3月21日 午前9時 奥之院
3月21日はお大師さまが御入定(ごにゅうじょう)された日です。
高野山では、毎年新暦と旧暦の3月21日に『御影供』と称し、全山住職をあげてお大師さまに報恩を捧げます。
この日にはお大師さまの身代わりとして1年間にわたり高野山の重要な法会の御導師をお勤めになる「法印御房」が御出仕なされ、信者の方も大勢参列し非常に華やかな法会となります。
御影供はお大師さまが御入定されて76年目の延喜10年(910年)3月21日、京都東寺(とうじ)にあります「潅頂院(かんぢょういん)」というお堂にて、当時の長者(つまり一番偉い方)観賢僧正(かんげんそうじょう)がお始めになられたといわれ、高野山ではそれより遅れて久安4年(1148年)3月21日に金剛・胎蔵の両秘法を修法して報恩を捧げたことが伝えられています。
現在では御衣(ぎょい)のお寺として有名な寶龜院(ほうきいん)様より、金剛峯寺へ従者と共に唐櫃にて「御衣」を奉持します。
金剛峯寺では本山の重役を初め、執行代(しぎょうだい)と呼ばれる方がおまちうけします。
金剛峯寺に運ばれた「御衣」は一端持仏間(じぶつ=お寺の先住様のご位牌や仏様をおまつりしている部屋)の前の浄薦の上に蓋を開けて置かれ、御法楽(仏様にお経を読んで捧げる)をします。
続いて先の執行代様が目録と中身を照らし合わせて確 認し、すぐに寶龜院様と先の従者と共に奥之院へ向かいます。
奥之院に着けば燈籠堂正面に唐櫃を安置し、ただちに執行代様がご供養のために一座の修法をされます。
さらに9時から引き続いて本番の「正御影供」を執行し、懇ろに供養された唐櫃の中の「御衣」は再び従者と共に今度は御影堂へ向かいます。
そうして御影堂に着いた「御衣」は御影堂の内々陣(お堂の一番奥のところ)に安置され、1年間にわたり供養が続けられます。
この御衣は来年の法印御房がおめしになります。
★彼岸 中日前後三日間 午後1時 彼岸会 (ひがんえ)
3月と9月彼岸中日前後三日間 午後1時 伽藍金堂
彼岸供養のため、春は3月、秋は9月共に中日前後3日間、金堂において滅罪生善のため厳修されます。
元々は、御影堂において行われていたのですが、長久5年(1044年)に金堂に移されたといわれています。
来年3月から受付を再開いたしますので、よろしくお願い申し上げます。
《3月行事のご紹介》
★21日 午前9時 正御影供 (しょうみえく)
3月21日 午前9時 奥之院
3月21日はお大師さまが御入定(ごにゅうじょう)された日です。
高野山では、毎年新暦と旧暦の3月21日に『御影供』と称し、全山住職をあげてお大師さまに報恩を捧げます。
この日にはお大師さまの身代わりとして1年間にわたり高野山の重要な法会の御導師をお勤めになる「法印御房」が御出仕なされ、信者の方も大勢参列し非常に華やかな法会となります。
御影供はお大師さまが御入定されて76年目の延喜10年(910年)3月21日、京都東寺(とうじ)にあります「潅頂院(かんぢょういん)」というお堂にて、当時の長者(つまり一番偉い方)観賢僧正(かんげんそうじょう)がお始めになられたといわれ、高野山ではそれより遅れて久安4年(1148年)3月21日に金剛・胎蔵の両秘法を修法して報恩を捧げたことが伝えられています。
現在では御衣(ぎょい)のお寺として有名な寶龜院(ほうきいん)様より、金剛峯寺へ従者と共に唐櫃にて「御衣」を奉持します。
金剛峯寺では本山の重役を初め、執行代(しぎょうだい)と呼ばれる方がおまちうけします。
金剛峯寺に運ばれた「御衣」は一端持仏間(じぶつ=お寺の先住様のご位牌や仏様をおまつりしている部屋)の前の浄薦の上に蓋を開けて置かれ、御法楽(仏様にお経を読んで捧げる)をします。
続いて先の執行代様が目録と中身を照らし合わせて確 認し、すぐに寶龜院様と先の従者と共に奥之院へ向かいます。
奥之院に着けば燈籠堂正面に唐櫃を安置し、ただちに執行代様がご供養のために一座の修法をされます。
さらに9時から引き続いて本番の「正御影供」を執行し、懇ろに供養された唐櫃の中の「御衣」は再び従者と共に今度は御影堂へ向かいます。
そうして御影堂に着いた「御衣」は御影堂の内々陣(お堂の一番奥のところ)に安置され、1年間にわたり供養が続けられます。
この御衣は来年の法印御房がおめしになります。
★彼岸 中日前後三日間 午後1時 彼岸会 (ひがんえ)
3月と9月彼岸中日前後三日間 午後1時 伽藍金堂
彼岸供養のため、春は3月、秋は9月共に中日前後3日間、金堂において滅罪生善のため厳修されます。
元々は、御影堂において行われていたのですが、長久5年(1044年)に金堂に移されたといわれています。